NEXT MOBILITY

MENU

2023年4月2日【オピニオン】

ポルシェAG、ハラルド・ワグナー氏の逝去を悼む

坂上 賢治

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

シュトゥットガルト近くのシュロス・ソリチュード城の前で、ポルシェ928 S4( My.1992 )に乗るハラルド ワーグナー氏

 

ポルシェAGは4月1日、長年セールスディレクターを務めた同社執行委員会・元特別代表のハラルド・ワグナー( Herald Wagner )博士の逝去を悼むリリースを報じた。死去は同日から遡る事10日前の3月20日・享年99歳。( 坂上 賢治 )

 

同氏は1923年8月28日、シュトゥットガルトで5人弟妹の長男として誕生。母親はドロテア・ポルシェの妹のニー・ライツ。

 

1950年9月7日、グロースグロックナーでのフェルディナンド・ポルシェ教授とハラルド・ワーグナー

 

彼は若干13歳( 1936年 )の時、オーストリア最高峰( 標高3798メートル )グロースグロックナーの鞍部を越えていく山岳道路で、フェルディナンド・ポルシェ教授がステアリングを握るフォルクスワーゲンビートル・プロトタイプの助手席に座っていた。

 

その後ワーグナー氏は従軍中の1945年・夏、ロシアの捕虜収容所から独バーデンヴュルテンベルク州エーリンゲンに逃亡。そこで彼は自動車販売店で見習いとして働き始める。

 

1963年、ポルシェ356Bカブリオレをパトカーとして引き渡すフェリー・ポルシェ。右から3番目がハラルド・ワグナー

 

更に11年を経た1954年1月、ポルシェの国内販売責任者の補佐役として訓練を受け、やがて独国内のポルシェ販売を担うセールスディレクターとなった。以来、ディーラー ネットワークの構築で活躍。34年間後の1988年に現役から退いた。

 

そんなワグナー氏はかつて引退前、バーデンヴュルテンベルク州の州都ツッフェンハウゼンで、顧客達が真新しいポルシェを受け取る際の喜びの様子を懐かしく思い出し、当時の様子を語っている。

 

1973年のハラルド・ワーグナー( 写真右端 )とヘルベルト・フォン・カラヤン、リチャード・フォン・フランケンベルクとエルンスト・フールマン( 写真右端 )

 

例えば1980年代に、社交界のアイコンとなったグロリア・オブ・トゥールン・アンド・タクシス。またザルツブルク公国生まれの指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンなどの各界のスター達が、911を初めて手にした際、彼は車両を引き渡すセレモニーのプレゼンター役を演じた。

 

また彼は、911シリーズで初の脱着式ルーフを持つタルガトップモデルの命名にもひと役買っている。世界初のタルガは1965年9月のIAA(フランクフルト)で披露された。

 

当時はカブリオレでもなくクーペでもない。安全性に拘った固定式ロールオーバーバーを備えたカブリオレをボルシェが「ダルガ」と名付けたとされる。

 

1974年、911カレラ2.7クーペを顧客へ配送するハラルド・ワグナー

 

それはアメリカ市場で求められた当時の新たな安全基準(ロールオーバー時の対策)をクリアするべく、ポルシェが打ち出した新たな回答だった。

 

この新型車に特別な名前を付ける時、ワグナー氏はポルシェ車が1950年代から活躍し続けて来たクローズドレース「タルガ フローリオ( Targa Florio / シチリア )」に着目。

 

当初は、これにあやかり「911フローリ( Flori )」などの案が生まれたのだが、この際の議論でワーグナー氏は「単刀直入にタルガと呼ぶのはどうか?」と提案。これが採用されてタルガは、911に無くてはならない伝統の車種カテゴリを指すネーミングとして定着した。

 

ちなみに英語のナンバープレート( Number plates )は、イタリア語でヌメリ・ディ・タルガ( Numeri di targa )と呼ばれており、タルガモデルがキャビン後半を被う特徴的なプレートをもつ事も命名を決める際の一助のひとつになったともされている。なおポルシェは1965年8月にタルガの特許申請を行い、1960年代の米国のセールス市場に於いて大成功を収めた。

 

 

 

CLOSE

坂上 賢治

NEXT MOBILITY&MOTOR CARS編集長。日刊自動車新聞を振り出しに自動車産業全域での取材活動を開始。同社の出版局へ移籍して以降は、コンシューマー向け媒体(発行45万部)を筆頭に、日本国内初の自動車環境ビジネス媒体・アフターマーケット事業の専門誌など多様な読者を対象とした創刊誌を手掛けた。独立後は、ビジネス戦略学やマーケティング分野で教鞭を執りつつ、自動車専門誌や一般誌の他、Web媒体などを介したジャーナリスト活動が30年半ば。2015年より自動車情報媒体のMOTOR CARS編集長、2017年より自動車ビジネス誌×WebメディアのNEXT MOBILITY 編集長。

松下次男

1975年日刊自動車新聞社入社。編集局記者として国会担当を皮切りに自動車販売・部品産業など幅広く取材。その後、長野支局長、編集局総合デスク、自動車ビジネス誌MOBI21編集長、出版局長を経て2010年論説委員。2011年から特別編集委員。自動車産業を取り巻く経済展望、環境政策、自動運転等の次世代自動車技術を取材。2016年独立し自動車産業政策を中心に取材・執筆活動中。

間宮 潔

1975年日刊自動車新聞社入社。部品産業をはじめ、自動車販売など幅広く取材。また自動車リサイクル法成立時の電炉業界から解体現場までをルポ。その後、同社の広告営業、新聞販売、印刷部門を担当、2006年に中部支社長、2009年執行役員編集局長に就き、2013年から特別編集委員として輸送分野を担当。2018年春から独立、NEXT MOBILITY誌の編集顧問。

片山 雅美

日刊自動車新聞社で取材活動のスタートを切る。同紙記者を皮切りに社長室支社統括部長を経て、全石連発行の機関紙ぜんせきの取材記者としても活躍。自動車流通から交通インフラ、エネルギー分野に至る幅広い領域で実績を残す。2017年以降は、佃モビリティ総研を拠点に蓄積した取材人脈を糧に執筆活動を展開中。

中島みなみ

(中島南事務所/東京都文京区)1963年・愛知県生まれ。新聞、週刊誌、総合月刊誌記者(月刊文藝春秋)を経て独立。規制改革や行政システムを視点とした社会問題を取材テーマとするジャーナリスト。

山田清志

経済誌「財界」で自動車、エネルギー、化学、紙パルプ産業の専任記者を皮切りに報道分野に進出。2000年からは産業界・官界・財界での豊富な人脈を基に経済ジャーナリストとして国内外の経済誌で執筆。近年はビジネス誌、オピニオン誌、経済団体誌、Web媒体等、多様な産業を股に掛けて活動中。

佃 義夫

1970年日刊自動車新聞社入社。編集局記者として自動車全分野を網羅して担当。2000年出版局長として「Mobi21」誌を創刊。取締役、常務、専務主筆・編集局長、代表取締役社長を歴任。2014年に独立し、佃モビリティ総研を開設。自動車関連著書に「トヨタの野望、日産の決断」(ダイヤモンド社)など。執筆活動に加え講演活動も。

熊澤啓三

株式会社アーサメジャープロ エグゼクティブコンサルタント。PR/危機管理コミュニケーションコンサルタント、メディアトレーナー。自動車業界他の大手企業をクライアントに持つ。日産自動車、グローバルPR会社のフライシュマン・ヒラード・ジャパン、エデルマン・ジャパンを経て、2010年にアーサメジャープロを創業。東京大学理学部卒。

福田 俊之

1952年東京生まれ。産業専門紙記者、経済誌編集長を経て、99年に独立。自動車業界を中心に取材、執筆活動中。著書に「最強トヨタの自己改革」(角川書店)、共著に「トヨタ式仕事の教科書」(プレジデント社)、「スズキパワー現場のものづくり」(講談社ピーシー)など。