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2015年5月23日【オピニオン】

ミス・フェアレディ誕生の原点と受け継がれた系譜を辿る

坂上 賢治

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 日本の首都・東京が、初回オリンピック(第18回・夏期オリンピック競技大会)の開催地となったのは1964(昭和39)年。

その開催期間は10月10日(後の体育の日)から10月24日までの15日間で、アジア地域で初開催のオリンピックであったこと。アジアやアフリカにおける植民地の独立が相次いだことなどで同大会は過去最高の出場国数を記録するなど大変華々しいものとなった。

 一方、この頃の日本は戦後の経済成長の最盛期に突入。エネルギーの主役が石炭から石油へと移行するなかで社会インフラの整備が急ピッチで加速。これに合わせて日本の生活習慣も大きく変化した時期でもあった。

 

 

 そんな1960年代の10年間は国内外からの旺盛な新規投資によって、東京の景観が徐々に変化しつつあった頃でもある。それゆえにビジネスとエンターテインメントの中心地に位置付けられていた銀座は、新たな流行や商品を日本全国の隅々まで紹介するための「披露の場」であり、人とモノの「交流の場」としても飛躍の時を迎えていた。

 

 当時の日産自動車は、その勢いに乗ろうと独自のショールームを銀座の中心地にオープンさせた。そんな当時の日産の様子を、その頃、宣伝課長を担っていた杖下孝之氏はよく覚えているという。

 


1963年当時、銀座ギャラリーがあった三愛ビル

 

 杖下氏は「三愛ビルの2階と3階にギャラリーを作りました。当時の銀座というのは、東京が日本の中心であって、その東京の中心が銀座ですから、銀座からすべての文化やファッションなど色々なものが拡がっていくところでした。

 

 

それで日産自動車としても一流の企業として、そこにドーンとショールームを構えることにしたわけです」と当時を懐かしく振り返る。

そんな華やかな場所にお客さまを迎えるため、美しいショールーム・アテンダントを起用する案が持ち上がり、その彼女たちに対して商品説明などの特別なトレーニングを求めるアイディアが生まれたのも、その時だったと語っている。

 

第1期生として5名の日産「ミス・フェアレディ」が選出

 

 新たなショールーム・アテンダントを養成するコンセプト作りを経た後、銀座のショールームに相応しい女性を求めて採用試験が行われ、数回の面接の末に第1期生として5名の日産「ミス・フェアレディ」が選出された。

 


ミス・フェアレディ 第1期生

 

 ちなみに日産には、こうした彼女たちを生み出す源流を過去に持っていた。それは日産自動車にとって格好の先例であったのだが、それがかつて1930年代に日産車の紹介をするために採用された「ダットサン・デモンストレーター」の女性たちであった。

杖下氏は「日産の当時の宣伝担当課長が『折角ショールームがあるんだから、そこで新たなデモンストレーターがお客さんに接して説明をして、良いイメージを与えよう』と企画したのです」と語る。

 

 

 ただ新たに銀座に配置する女性たちであるゆえ、もちろん今回は「ダットサン・デモンストレーター」というわけにはいかない。そこで1962年に発表された日産製スポーツカーのダットサン・フェアレディ1500にちなんだ名前が新命名された。この「フェアレディ」という名前は当時大人気だったブロードウェイミュージカルを意識して命名されたものだったという。

 

 厳しい選考を潜り抜けて選ばれた第1期のミス・フェアレディたちは、イベントや宣伝広告に登場し始め、一躍、日産のプロモーション活動にとって彼女たちが欠かせない存在となっていった。

当時のミス・フェアレディは、新商品の発表やイベントへと頻繁に販売店などへ赴くだけに留まらず、日産がスポンサーを務めていたゴルフトーナメント会場に登場することさえあったほどだ。

 


ミス・フェアレディとダットサンフェアレディ1500

 

また当時の彼女たちにとっても接客の仕事は、事務職よりも待遇がよく、かつては会社のクルマを貸与されるなどさまざまな特典もあったという。

 

世代を超えて引き継がれていくミス・フェアレディ

 

 そんな1970年代初期にミス・フェアレディとして活躍した日向野順子さんは、「ミス・フェアレディ」は本当に出番が多く、契約期間の1年間がとても多忙だったことを覚えているという。順子さんは当日の様子について「私たちは1年間だけの契約でしたので、(あちこちに出張で出かけていると)毎日が目まぐるしく過ぎていきました。

地方の販売店さんで新しい車が展示された際には、その説明に、と借り出されました。大阪、福岡、岡山とさまざまな所に行かされたのを覚えています」と話す。

 

 そして順子さんは、ミス・フェアレディの契約満了後、やがて結婚して新しい家族ができた。その後、何十年かのを時を経て今度は娘の温代さんが、母親と同じ道を進むことを決意した。この時、順子さんは、娘の決断を後押したが、すぐにその仕事が自分の経験したものから大きく進化していたことを知ったという。

 

順子さんは、「もちろん、あそこ(ミス・フェアレディ)に受かって、指導していただければ、もうそれ以上のことはないですからね。

なので、(採用は)無理かもしれないけど一度受けてみれば?ということで応募させました。しかし私たちの時代よりも今は、さらに多くの知識を得る必要があると感じています。子供が今やっている内容のほうがより大変そうですし、『仕事』って感じがしますね」と畳み掛けている。

 実際、ミス・フェアレディとして備えるべき資質を伝える厳しいトレーニングに加え、東京モーターショーや株主総会のような特別なイベントの舞台に立つことも、仕事の日課に加わっている。

 


現在のトレーニングの様子

 

順子さんの娘の日向野温代さんは、去年まで横浜の本社に勤務していたが、商品に対する知識は、自分の努力だけで身につくことではないことを学んだという。

温代さんは「着任1年目の時にGT-Rが復活したのですが、1年目というのは勉強はしていても、そこまでクルマについて詳しくない時期ですので、そんな時に、こんなに存在感の大きなクルマが出てしまったので知識を詰め込むのに本当に大変な1年間でした。

GT-Rについては、お客さまのほうが詳しい場合も多く、お客さまからも色々な情報を得て、お客さまからも学ばせていただきました」と当時を振り返っている。

 

ミス・フェアレディも時代を超えて変化していく

 

 時代を経る毎に女性の昇進の限界が変化していく日本企業が数多く登場する中で、「ミス・フェアレディ」のプログラムも進化を重ね、女性がチーフとしてマネジメントとしての役割を発揮するようになっていく。

現在入社5年目になる青島祐子さんは、東京と横浜エリアの「ミス・フェアレディ」チーフとして務めている。祐子さんは「新卒で入社してたくさんの事を学びました。たとえば立ち居振る舞い、話し方、礼儀、接遇も含めてしっかりと基礎から学びました。

これからの仕事というよりも人間としての糧になっていくのではないかなと思います。どんな職業にしても今後に活きてくると思います」と語っている。

 

 一方、山尾百合子さんは、現在のトレーニング・プログラムを提供する会社の代表であり、元「ミス・フェアレディ」だ。百合子さんは、提供してする同プログラムが、その後のキャリアに大きく生きることを知っている。百合子さんは「こちらでは、本当に高いレベルの教育システムを受けさせて頂いています。

 


1970年の銀座4丁目交差点の様子

 

ここを“卒業”したミスのOGたちは、アナウンサーになったり、いわるゆるプレゼンテーション力を活かした職業、女優さんだったり、タレントさんだったり、もちろん専業主婦だったり、色々なところで活躍されています。

比較的プレゼンテーション力を活かしたお仕事で、活躍している方が多いですね。起業家も多いです。私も含めて」と話してくれた。

 

 銀座に日産のギャラリーが出来てから50年経つ現在、累積1,000人以上の女性がミス・フェアレディの制服を纏ってきた。ミス・フェアレディは、もはや日産にとって、その時々の時代の要請に応えつつ新たな役割を与えられ、次々と育まれてきたスキルが代々受け継がれていく。しかしそんな中でも、ひとつだけ変わっていないものがある。

それは「ミス・フェアレディ」という存在が単なる綺麗なだけの飾りものではない、ということだ。(著述参考:ミス・フェアレディの誕生と伝統)

 

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坂上 賢治

NEXT MOBILITY&MOTOR CARS編集長。日刊自動車新聞を振り出しに自動車産業全域での取材活動を開始。同社の出版局へ移籍して以降は、コンシューマー向け媒体(発行45万部)を筆頭に、日本国内初の自動車環境ビジネス媒体・アフターマーケット事業の専門誌など多様な読者を対象とした創刊誌を手掛けた。独立後は、ビジネス戦略学やマーケティング分野で教鞭を執りつつ、自動車専門誌や一般誌の他、Web媒体などを介したジャーナリスト活動が30年半ば。2015年より自動車情報媒体のMOTOR CARS編集長、2017年より自動車ビジネス誌×WebメディアのNEXT MOBILITY 編集長。

松下次男

1975年日刊自動車新聞社入社。編集局記者として国会担当を皮切りに自動車販売・部品産業など幅広く取材。その後、長野支局長、編集局総合デスク、自動車ビジネス誌MOBI21編集長、出版局長を経て2010年論説委員。2011年から特別編集委員。自動車産業を取り巻く経済展望、環境政策、自動運転等の次世代自動車技術を取材。2016年独立し自動車産業政策を中心に取材・執筆活動中。

間宮 潔

1975年日刊自動車新聞社入社。部品産業をはじめ、自動車販売など幅広く取材。また自動車リサイクル法成立時の電炉業界から解体現場までをルポ。その後、同社の広告営業、新聞販売、印刷部門を担当、2006年に中部支社長、2009年執行役員編集局長に就き、2013年から特別編集委員として輸送分野を担当。2018年春から独立、NEXT MOBILITY誌の編集顧問。

片山 雅美

日刊自動車新聞社で取材活動のスタートを切る。同紙記者を皮切りに社長室支社統括部長を経て、全石連発行の機関紙ぜんせきの取材記者としても活躍。自動車流通から交通インフラ、エネルギー分野に至る幅広い領域で実績を残す。2017年以降は、佃モビリティ総研を拠点に蓄積した取材人脈を糧に執筆活動を展開中。

中島みなみ

(中島南事務所/東京都文京区)1963年・愛知県生まれ。新聞、週刊誌、総合月刊誌記者(月刊文藝春秋)を経て独立。規制改革や行政システムを視点とした社会問題を取材テーマとするジャーナリスト。

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経済誌「財界」で自動車、エネルギー、化学、紙パルプ産業の専任記者を皮切りに報道分野に進出。2000年からは産業界・官界・財界での豊富な人脈を基に経済ジャーナリストとして国内外の経済誌で執筆。近年はビジネス誌、オピニオン誌、経済団体誌、Web媒体等、多様な産業を股に掛けて活動中。

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1970年日刊自動車新聞社入社。編集局記者として自動車全分野を網羅して担当。2000年出版局長として「Mobi21」誌を創刊。取締役、常務、専務主筆・編集局長、代表取締役社長を歴任。2014年に独立し、佃モビリティ総研を開設。自動車関連著書に「トヨタの野望、日産の決断」(ダイヤモンド社)など。執筆活動に加え講演活動も。

熊澤啓三

株式会社アーサメジャープロ エグゼクティブコンサルタント。PR/危機管理コミュニケーションコンサルタント、メディアトレーナー。自動車業界他の大手企業をクライアントに持つ。日産自動車、グローバルPR会社のフライシュマン・ヒラード・ジャパン、エデルマン・ジャパンを経て、2010年にアーサメジャープロを創業。東京大学理学部卒。

福田 俊之

1952年東京生まれ。産業専門紙記者、経済誌編集長を経て、99年に独立。自動車業界を中心に取材、執筆活動中。著書に「最強トヨタの自己改革」(角川書店)、共著に「トヨタ式仕事の教科書」(プレジデント社)、「スズキパワー現場のものづくり」(講談社ピーシー)など。