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2015年5月1日【オピニオン】

シボレー設立から107年、その源流を遡る

坂上 賢治

 

Louis-Joseph Chevroletという人物

 

2018年11月3日にブランド設立107年目を迎えるシボレー。しかし日本では同ブランドの源流について、あまり広く知られていないように思う。そんなシボレーのブランドマーク誕生の諸説は、既稿の別テーマをご覧頂くとして、この「Chevrolet」というブランドそのものを丹念に辿っていくと、1878年12月25日のクリスマスにスイス・ベルンジュラ地方で生まれた「ルイ・ジョセフ・シボレー(Louis-Joseph Chevrolet)」という人物に行き当たる。( 坂上 賢治 / MOTOR CARS の2015-04-01掲載記事を転載 )

 

ルイ・ジョセフ・シボレーこと「ルイ」は、欧州で多感な青年期の大半を過ごし、馬車のメカニズムを通じて機械工学を学んだ。そしてアメリカ人自転車レーサーのヴァンダービルトに誘われるままに19世紀末にフランスを離れ、カナダ(ケベック州モントリオール)を経て、米国に渡ってきた移民のひとり として当地に立った。

そんなルイが、大西洋を渡ってやっきた当時の米国は、国家という切り口で見ると、まだ安定することなど念頭に無い青年期で、20世紀を目前に迎えたばかりの時期にあたる。

 

新興勢力シボレーモーターカーの創設

 

当時の自動車産業は、現代のICT産業の隆盛にとても似ており、同産業は時代の最先端を行く新興ビジネスだった。ルイはこの業界で、持ち前の腕力と卓越したドライビングテクニックで時代の波に乗り続け、新星ビュイックを駆る気鋭のレーシングドライバーとして、米国内ではかなり名の売れた存在になっていった。

 


シボレーロイヤルメールロードスター(1914年)

 

ルイは、そこで獲得した名声を足掛かりに、元々モノ作りに関心が高かった自身の三兄弟のガストンとアーサー。それに加えて、フランス人自動車技師のエティエンヌ・プランシュというメンツを集結させ、自動車作りに向けての事業化を模索し始めた。

 

一方で同じ頃、1985年のスィーブ・ジョブズのように自分が立ち上げたGMから経営者としての地位を追われ、事実上、失業状態となっていたウイリアム・クラポ・ビリー・デュラントもこの計画へ参画。

 


シボレースポーツロードスター(1932)

 

さらに投資パートナーのウィリアムリトルと、デュラントの義理の息子であるエドウィンR.キャンベルがメンバーが加わり、自動車メーカーとしての「シボレーモーターカー」が創設されることとなった。GMのファウンダー(創業者)、デュラントという経営上においては、手強い味方を得た新興の自動車メーカー「シボレー」は、1911年にT型6気筒ヘッドを持つ4904ccの「シボレー・クラシック・シッスク」を開発。これが同ブランド初の量産車である。

 

 

GM創業者デュラントの果たした役割

 

ただこのクラシック・シッスクというクルマは、今のアメリカ人が「シボレー」という名前から連想するイメージとは異なり大変無骨で、言わば野暮ったいクルマだった。

 


シボレーサバーバン(1936)

 

それでも1914年末までに9000台もの車両販売を達成。後に新型6気筒を搭載したモデルを。さらに4気筒エンジン搭載のH型へと続き、調子に乗ったシボレーは、既にトップメーカーとして先行していたフォードにとっては憎らしいライバルとなって、販売競争を演じ続けるまでに成長。

 


シボレーコルベット(1953)

 

やがて時代が巡り1920年代に入ると、自動車販売の「信用売り」に当初難色を示していたヘンリー・フォードを尻目に、デュラントが分割払いの車両販売を開始。これをテコに1928年には、米国内9工場だけでなくカナダ工場も含めて100万台を大きく超える生産台数を記録。これが結果的にシボレーの地位を不動のものにした。

 


シボレーベルエアスポーツクーペ(1955)

 

しかし肝心のブランド名を提供したルイは、事業を立ち上げて間もない頃から、クルマ作りでデュラントと対立を深めるようになった。

そんなある日、デュラントがルイに、「安っぽい紙巻き煙草を吸う習慣をそろそろ変えてはどうか」と進言した些細なことから(あくまでも逸話による切っ掛けであり、実際には事業上の目的や目標の違いにすれ違いが生まれていたと考えられる)仲違いが深刻化。ルイは、1915年に保有株をすべてをシボレーモーターカーに売却。これを契機に自動車ビジネスの一線から退くこととなってしまったのである。

 


シボレーインパラ(1963)

 

遺した華々しい功績だけが人生の価値ではない

 

ただ元来ルイは、著名なレーシングドライバーとして米国内で高い名声を保ち続けていたことから、1916年以降もレースシーンでは華々しい活躍とリザルトを残しており、また新会社のフロンテモーターズコーポレーションの設立にも尽力した。しかし1929年の株式市場の暴落で保有蓄財の殆どを散財。そして終に1941年の6月6日、ミシガン州において、大きな財産らしいものも残すことなく他界した。

 

21世紀を迎えた今日。GMには欠くことのできないビックネームとなったシボレーは、スポーツカー、フルサイズピックアップトラック、セダン、そしてクーペといったスタイル別のモデルラインナップの充実にとどまらず、次世代EVに於いてもブランド価値を強く輝かせている。

そしてルイ・ジョセフ・シボレーは、インディアナ州の聖ヨセフ墓地に埋葬されており、彼の胸像はインディアナポリスモータースピードウェイ博物館の入り口に立ち、その偉功を今に伝えている。

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坂上 賢治

NEXT MOBILITY&MOTOR CARS編集長。日刊自動車新聞を振り出しに自動車産業全域の取材活動を経て同社出版局へ。コンシューマー向け媒体(発行45万部)を筆頭に環境&リサイクル紙、車両ケア&整備ビジネス専門誌等の創刊誌編集長を歴任。独立後は一般誌、Web媒体上でジャーナリスト活動を重ね30年半ば。2015年より自動車情報媒体のMOTOR CARS編集長、2017年より自動車ビジネス誌×WebメディアのNEXT MOBILITY 編集長。

松下次男

1975年日刊自動車新聞社入社。編集局記者として国会担当を皮切りに自動車販売・部品産業など幅広く取材。その後、長野支局長、編集局総合デスク、自動車ビジネス誌MOBI21編集長、出版局長を経て2010年論説委員。2011年から特別編集委員。自動車産業を取り巻く経済展望、環境政策、自動運転等の次世代自動車技術を取材。2016年独立し自動車産業政策を中心に取材・執筆活動中。

間宮 潔

1975年日刊自動車新聞社入社。部品産業をはじめ、自動車販売など幅広く取材。また自動車リサイクル法成立時の電炉業界から解体現場までをルポ。その後、同社の広告営業、新聞販売、印刷部門を担当、2006年に中部支社長、2009年執行役員編集局長に就き、2013年から特別編集委員として輸送分野を担当。2018年春から独立、NEXT MOBILITY誌の編集顧問。

片山 雅美

日刊自動車新聞社で取材活動のスタートを切る。同紙記者を皮切りに社長室支社統括部長を経て、全石連発行の機関紙ぜんせきの取材記者としても活躍。自動車流通から交通インフラ、エネルギー分野に至る幅広い領域で実績を残す。2017年以降は、佃モビリティ総研を拠点に蓄積した取材人脈を糧に執筆活動を展開中。

中島みなみ

(中島南事務所/東京都文京区)1963年・愛知県生まれ。新聞、週刊誌、総合月刊誌記者(月刊文藝春秋)を経て独立。規制改革や行政システムを視点とした社会問題を取材テーマとするジャーナリスト。

山田清志

経済誌「財界」で自動車、エネルギー、化学、紙パルプ産業の専任記者を皮切りに報道分野に進出。2000年からは産業界・官界・財界での豊富な人脈を基に経済ジャーナリストとして国内外の経済誌で執筆。近年はビジネス誌、オピニオン誌、経済団体誌、Web媒体等、多様な産業を股に掛けて活動中。

佃 義夫

1970年日刊自動車新聞社入社。編集局記者として自動車全分野を網羅して担当。2000年出版局長として「Mobi21」誌を創刊。取締役、常務、専務主筆・編集局長、代表取締役社長を歴任。2014年に独立し、佃モビリティ総研を開設。自動車関連著書に「トヨタの野望、日産の決断」(ダイヤモンド社)など。執筆活動に加え講演活動も。

熊澤啓三

株式会社アーサメジャープロ エグゼクティブコンサルタント。PR/危機管理コミュニケーションコンサルタント、メディアトレーナー。自動車業界他の大手企業をクライアントに持つ。日産自動車、グローバルPR会社のフライシュマン・ヒラード・ジャパン、エデルマン・ジャパンを経て、2010年にアーサメジャープロを創業。東京大学理学部卒。

福田 俊之

1952年東京生まれ。産業専門紙記者、経済誌編集長を経て、99年に独立。自動車業界を中心に取材、執筆活動中。著書に「最強トヨタの自己改革」(角川書店)、共著に「トヨタ式仕事の教科書」(プレジデント社)、「スズキパワー現場のものづくり」(講談社ピーシー)など。